昭和45年7月20日 朝の御理解  【入力者:岡村和一郎】

御理解 第61節
「神より金光大神に、いつまでも尽きぬおかげを話にしておくのぞ。信心しておかげを受けたら、神心となりて人に丁寧に話をしてゆくのが、真の道をふんでゆくのぞ。金光大神が教えたことを違わぬように人に伝えて真の信心をさせるのが、神へのお礼ぞ。これが神になるのぞ。神になりても、神より上になるとは思うな。」


 金光大神の教えておって下さることは、えー、天地の親神様、いうならご直伝のお話であって、うー、そのことを、うー、守らして頂き、信心していけば、(嫌?)でもおかげが受けられるというのが、お道の信心。うーん、そこで、人に丁寧に話をしていくのが、真の道を踏んでいくとか、「金光大神が教えたことを違わぬように人に伝えて真の信心をさせるのが、神へのお礼ぞ」とかいうところを、(?)うーん、そこに、うーん、一人の人が助かっていくと、一人が、そのために、例えばお導きされる、ま、されるわけですけれども、お導きというところまではいかなくても、自分がおかげを受けたことを人に伝えていくということ、これは信心者同士の場合でも、あー、それが言えると思うですね。
 「あの人の話を聞きよったら、あそこが分かった」と。と、その話をしておる人が、おかげを受けたことをもとにして、体験を、例えば発表すると。それが、例えば、聞く者にしたら、「あー、ああいう生き方があるんだな」というふうに、その、(?)生き方に、うー、信心が分からして頂けれえると。
 (?)共励会などに参りますと、おかげを受けておることを話される前に、「神様へのお礼のつもりでお話をさせて頂きます」といったようなことを言われますね。ですからほんとにあの、神様へのお礼のつもりでお話をする。神様の、うー、御礼(おんれい)と思うてお話をすると。いわゆる「神へのお礼ぞ」と。「真の信心をさせるのが神へのお礼ぞ」と。
 ですから、これにはどうしても、真のおかげという、ほんとのおかげというものをまた、頂いて、その、うー、こういう信心して、こういうおかげを頂いた、という話を、できるだけたくさんさせて頂かなければならないということが分かります。
 「私はお話下手じゃからもの」と言うて、遠慮しとったんじゃ、神様へのお礼にはならないわけです。ですから、どうでも自分の頂いておるおかげを、十分に発表のできれる、私はけいこが必要だと、こう思いますね。
 これはもう2分か3分でお話できるようなお話でもです、ほんとにおかげの実感というもの、ですかね、えー、それは相手の心に、ほんとに有り難いことだなと、ね、初めて分かったというように、そのことによって、相手が有り難いと思われたり、分かられたりするということが、神様へのお礼と。やはり神様へのお礼がね、行き届かんことには、やはり、「それが神になるのぞ」とまでおっしゃっておりますからね、確かに信心、うーん、そしておかげ、(ほんと?)に人の真似のできんようなおかげを受けておる人たちが、あー、あちらこちらにお話の方に参られます、という人たちがお話、どんどんやはり、おかげを受けるはずだと思いますね。ね、神様へのお礼がどんどんでけておるわけですから。ね。
 例えば、(?)の場合なんかそうですね。自分が頂いておられるおかげ、自分の頂いておられる信心というものを、人に聞いてもらうということが、自分としても最高の喜びを感じておられるようだし、だから神様もそれを、こよなく喜んでおって下さる、その証拠に、やはり「神になるのぞ」と思われるほどしに、信心が進んでおかげを受けられておられます、ね。
 ですから、どうでも一つ、金光様のご信心をさして頂いたら、おかげと実感したことの、誰にでもお話するがいいですね。ただ、この人をお導きしようというような気持ちで、お話するのじゃない。自分のおかげを受けておることを、有り難いと思うておることを、例えば、相手はどうでもいい、お話をしていくということが、神様へのお礼なんです。ね。
 昨夜、合楽会でございましたが、合楽会の中でも、あー、役人さんたちに、いわば、素朴な信心とでも申しましょうかね、それはもちろん当たり前のこと、信心の年限というのが非常にまだ、あー、ここに、どうでも参りましてからの方たちがほとんどですから。けれどもやっぱりあそこへ、えー、商人の方が熱心に御広前ができられておられる方ちの、一言一言のその、ほんとに2分も3分もないぐらいな短い体験ですけれども、ほんとに有り難いおかげを受けるですね、ち言ってから申しますようにその、ぅぁー、どんなに例えば、(?)長年の信者の時代やったのを聞いても、有り難いお話をされますですねえ。
 だから、これが、私神様に、はー私どもの信心は、人間ばっかり長うなって、そういう生き生きしたものが生まれてこない。ま、例えて言うと、久保山さんが、この頃から、あの草取りされておってから、鎌を自分のこう手に打ち込んでですね、中に、骨に当たるような、(?)私が(?)にしておる、その時だったと、こう思います。
 それで、えーご神米を、「金光様、金光様」で、どんどん血が流れるとを、3枚までご神紙を頂いた時に、血がとまって、もう人には、(?)見せても見きらんぐらいの、こうひどい傷だったもんだから、ほんとにお神酒様とご神紙で、こういうおかげを頂いた。
 もうほんとに跡形もないごと、おかげ頂いて、そういう実感をそのまま、ああお話ししておられますがね。とても今の私たちは、そういうおかげ頂ききらん。ん。ほんとに信心はもう巧者であるとか、信心が浅いとかという、まだ日にちが短いとかいうことじゃないですね。
 また、えー、中村さんの(?)なんか、今年はまだ風邪を引かれないち。もう安田ん森の、それも食堂ですね。安田ん森の火事はもう有名やった。もうお客さんに(分かるごと?)それこそ、大きな蚊がでてきてから、やったのが、もうおばあちゃんがたまがられると。今年はどうしたこっちゃやろうかち。ああいう言うなら藪の中ですから、蚊がおらんはずはないのだろうけれども、別に蚊がどうぞおりませんように願われるということはないけれども、ね、いうならば、真の信心を求めて一生懸命、信心のけいこをさせて頂いておられる。もうほんとに不思議と言わなきゃおれないというようなおかげ、ほんともうそういうおかげを、私は頂ききらんと。
 ね、なら、(?)だってそうでしょうが。ですから、どこにどういう神様との交流があれば、そういう、例えば不思議なおかげを受けられるだろうか。ね。その生き生きとした信心を体験をさせて頂いておる時、そういうふうに、私どものように長年信心を頂いておる者でも、もう一遍、自分の信心を新たなものにしなければならないな、といったようなことを感じるです。ね。
 聞く者をして皆がそれがほんとに有り難い。けれども、こういう話を信心のない者にでも話したっちゃ、あーその、本当と思わんだろう。信心(?)はんごたることばっかり言うていう、もうむしろ信心のあるもの同士の方が有り難い。いわゆる、必ずしも信心のない人たちにお導き的なお話じゃなくてもいいということが分かります。
 いわゆる、信心のある者同士が、信心のある者同士がほんとにおかげの実感というものをお話しします時に、信心が弱まっていきよる、信心がどうもこの頃疲れてきよるという時に、そういう話を、例えば聞きますと、信心が生き生きと蘇ってきる。ね。いわゆる、人に伝えて、真の信心をさせるということは、そういうこともあるんだということ。ね。
 私どもはもっともっと、ぅあー、そういうお話をですね、人に伝えていくおかげ、金光大神よりいつまでも尽きぬおかげと。私どもが頂いておる、その尽きぬおかげのもとであるところの、例えば信心を話にさせてもらわないと。なるほど、神様へのお礼のつもりで話さなきゃならん。
 それも昨夜、久富さんが、あー、発表しておられましたね。この頃、おー、(?)東京から帰ってまいります時に、あすこにお迎えに出て頂いておった。山田さんと二人で車に、あ、車でおいでられておった。それで途中までは、あー、おーお迎えして、(?)と申して来よりましたけれども、途中でふっと心が変わった。もうこん遅かつ、合楽まで行かんでん、もう山田さんこのへんから、あの、(ぶじきたの、あの、交替、何を?)山田さんを送ってきなさればなりませんから、久留米の方さ入る道があるんだそうですね。
 それもそうですねち言うてから、久留米の方へ入られた。入られて二百メートルばっかりしたら、自動車がパンクしたち。はあー、山田さん、ほんとに神様厳しいのおち。まあその言おうと思うたけれどもね、これは神様が厳しいのじゃあない、こちらがだらしがないのだと思わせて頂いたというわけなんです。
 ほんとに神様は、なるほど、厳しいですねえ。で本気で信心を求めていこうとする人たちが、少し違ったことがあると、「はあ、それは間違いじゃないか」と、いわゆるお気付けを下さると、もうそういうわけなんです。けれどもそれは、神様厳しいのじゃない、こちらがだらしがない、こちらがルーズなんだ。ね。
 だから神様は、神様、なら仰せ通りにというか、素直にいきさえすりゃあ、決してそんな厳しいことにでてきなさりゃせん。ね。私はそういうお話頂かせて、初めて頂くような気がいたしました。ほんなこと、「神様は厳しい、神様は厳しい」、いかにも神様ええずかもんのごと言うけれど、そうじゃない。ね。こちらがだらしがないから、お気付け頂くのだと。
 ね、ほんの二百メートル参らん先に、パンクしたと。ね。親先生の後から着いて行っとりゃ、こういうこともなかったろうにと言うて、二人でそのことを話ながら、ま、修繕したり変えたりしてから、ま、帰られたという話をしておられます。ね。
 ですからほんとにそれが、あー、私も時間がいつも十二時までになっておりますから、えー、ほんとのあのー、んー、自分がやはり進んでね、一口でもお話させてもらわにゃおられんというようなお話をですね、積極的になさらなきゃいけない。
 まだ時間がちょっとあったから、(?)さんがまだ、発、お話ししてなかったから、久富さん、最後にあんたがお話してくださいと言うたから、なら、お話をされるまだ他にいろいろお話しておられましたがですね、えー、ほんとに新しい発見であり、新しい体験ですしね、あらー、こういう有り難い話を、今晩せんつもりでおりなさったっちゃろかと思うくらい。
 ね、山田さんしてください、久富さんしてくださいて言うて、ま、ようやくなさっておられましたけれどもです、私どもがそういう、私がもう、特に共励会なんかの時には、話を聞きたい、させて頂きたいという気持ちで集まりゃにゃいかんと。ね。また自分にもお話ができないという時には、ほんとに生き生きとしたおかげを受けてない時ですから、ほんとに恥しいことだと思います。(?)、ね。
 その話がですよ、相手に新しいことを、いわゆる真の道を伝えていくことになるのであり、ね、相手に、いわば、信心が生き生きしていくほどしのおかげを頂いていただくことですから、ね、確かに神様へのお礼である。そういう意味で、信心の共励は大事だと思います。
 私ここんところでは、んー、まこ、んー、自分のおかげを頂いたことを、人に伝えていくということがです、そしてそこに真の信心をさせるのが、んー神へのお礼ぞというふうに、新しいお導きをするということが、もそうでしょうけれど、お導きをしても、その人が真の信心進まなかったら、何にもなりません。
 それよりもやはり、私どもがね、信心者同士、お話し合いをさせて頂いて、あなた今の奥さんの話は、あー、素晴らしいお話やったというような話ができるということは、もう真の信心をさせよる、まあ相手に分からせること。ね。
 もちろん、なら信心のない人たち、難儀な人たちを見たらです、ね、そりゃ信心の(?)の話もさしてもらわなきゃならんのでありますし、または、あー、信心を始めなさったならば、真の信心で、えー、できるだけ進まれるように、えー、お話を、おー、して下さいよということも大事です。
 けれども、信心者同士、信心頂いとる者同士がね、あのー、話し合いをするということ。ね。これは私ほんとに大事なことだと、昨夜あのー、合楽会からそれを感じました。人に話をしていくのが、そして真の信心をさせるのが、話すだけじゃいかん。真の信心をさせるのが、とおっしゃるから。
 けれども、こちらがほんとにおかげを受けた話をさしてもらわんとです、相手がやっぱりおかげを受けます。しかも、十人より二十人の前、二十人より三十人の前でお話をするということはです、いよいよ有り難い。自分はお話がでけんというて、よいお話を長々とする必要はない。それこそ、おかげの実感を、ありのままそのままを聞いてもらう。これを神様へのお礼と心得て信心させて頂く。ね。
 なるほど、相手がおかげを頂いてくださる。相手も真の道に一段進まれるなら、そのことが、やはり神様の喜びともなり、私どもが神になるのとおっしゃる、信心の、いわゆる行き届いたというか、「神様へのお礼ぞ」とおっしゃる、神様の一番喜んでくださるお礼がでけるんですから、おかげ頂くはずだと思います。
 も一つ、信心者同士のね、ほんとの有り難い。私そのほんと一言も話せないなんて、これ恥しいことだと思うですよ。金光教のご信心頂いて。というて、んなら、無理して上手に作り話のような話をしたってダメですからね。もういつでもどこででもです、ね、んなら皆さんのお家からここまで来られる途中ででもです、ほんとに体験、たいけ、神様のおかげを実感でけれるような信心を、まず頂くことだと。
 それを、例えば帰りなら帰り道にも、それを聞いてもらえる、話せれるほどしのね、えー、信心を頂きたいものだと思いますね。どうぞ。